狭義の愛を考える

須田さんと時々、愛するのと愛されるの、どっちかを選べと言われたらどちらを選ぶかという話をしていて、愛されるより愛する方を選ぶと2人でうなづいた事があった。私なんて愛することも知らないくせにね。

ある時、須田さんから同じ様に質問されて、答えに迷ったら、須田さんは「香織ちゃん、愛する方だって答えると思ったのに…。」と呟いたんだ。

今、私は幾人かの言葉を聞いた上で、こういう事かしらと思うことがあるんだ。これを言っては元も子もないかもしれないけど、愛することと愛されることは、究極には同じ事なんだって。分けられない事。

(太郎さんを愛するか、二郎さんから愛されるか。そういう事なら、選べるかもしれないけど。)

(完全なストーリーとしてだけど…と書きたくなるけど)ツインレイという相棒がいるとする。その人との課題は、「無条件で相手を愛すること」そして意外にも「無条件で愛されることを受け入れること」らしい。これが意外に難しいようなんだ。「私なんか」という気持ち、自分を否定している気持ちがあると、相手から愛されていることが見えなかったり、愛情を受け入れることが出来なかったりするらしい。愛することが尊くて、愛されることがその次という事ではない様なんだ。

「自分を愛する」ことの大切さはよく聞くけど、自分を愛するっていうのは、自分から愛されるっていう感覚も含まれていて、愛すると愛されているが同時にある感じがする。自分を愛する(無条件で)ことができ始めると、愛されている安心感もあり、満ちた感じがする。自分からの肯定を受けて、愛される存在として認めることができ始める様な感じ。

逆に、人間として長い間生きてきて私についての否定的な概念を山程保持してきた分、「こんな私じゃダメなんだ・無条件で愛されるわけない」と思って、自分自身を愛することが出来ず、自分自身から愛されてる感じもない状態で、心はギスギスする。私まだココ。

ツインレイの2人が出会った後に一度離れ離れになって課題に向き合うプロセスを一様に通る(ことが多い)と言われる訳は、この離れた時間に、相手云々ではなく、まずは自身を無条件で愛する・ありのままを受け入れる事を学ぶ為らしい。「自分はダメ」という、後付け概念を手放すという感じかしら。

自分から愛されることを受け入れられていない人が、人から愛されることなど受け入れるわけがない。(よく、自分を愛せてない人が他人を愛せるわけがないとはいうけれど)

ツインレイは、他でもない、"自分自身と極めて似た個性を持つ分離の表現・エネルギー"らしく(多分そういう事…?)自分自身を愛することに同じだと思っていいのかもしれない。(実感として言ってるんじゃなく)

だから、「愛することと愛されることは同じこと」いうのは、自分自身についてはもちろんのこと、自分を愛せて自分からの愛を受け入れられて、ツインレイを無条件で愛せて、無条件で愛されることを受け入れられるというエネルギー循環として、切り離して選択する類いのものではなく、同じ事だという感じなのかなと思っているところ。

究極には、愛することと愛されることは同じだということかしらという、まとめ文。

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