今日はこれからギャザリングに参加する。その前に湧いた思考を記しておこうと思う。


前に阿部さんが、自身にとって菜穂ちゃんのことを、「極めて似ている個性」と表現したことがあった。すべては一つなのに双子と言うのはおかしいんじゃないかと言う指摘に対して答えたものだった。全ては一つなのだけれどもそれぞれが個性を持っているその中で極めて似ている個性を持った相手を双子と呼んだんだと。菜穂ちゃんのことをそう言った。


全ては一つの同じエネルギーだけれどそれぞれの表現に個性があると。花瓶とオレンジジュースは違う。エネルギーが違う。振るえ方が違う。オレンジジュースと緑茶は花瓶よりだいぶ近づいたけれどもやはり違う。エネルギーが違う。緑茶と紅茶も違う。ダージリンアールグレイは違う。その中で個性が極めて似たものに会ったとき、振動数が似ていると言うことなら互いに似ているとわかるはず。共振するから。なんかこの人違うって。

元は一つの同じダージリンでも、入れた容器が一方がボーンチャイナティーカップで、一方がペットボトルだった場合、見た目からは自分たちがもともと同じものだとは気づきにくいし、容器という環境が違うために、その影響を受けて、振動数は多少違っているのかもしれない。出会った2人が容器・見た目に捉われず、自分たちがもともと一つであると気づき、又、容器という環境のために不自然になった状態を元の自然な振動数に戻すこと、これが最後に一つのカップに、もはや同じと呼べるダージリンを注ぎこむことへの大切な動きになるんじゃないかと想像してる。


振動数は、エネルギーの収縮または拡散の度合いとも呼べるのかな。エネルギーが収縮していればそれだけ個体は重い。拡散していれば軽い。出会った2人が離れ離れになったまま生きているその間訪れる様々な出来事は、心が軽くなるための・自然になるための、きっかけを与えてくれる。


ツインレイに出会ったと思う人たちに、覚醒体験を持つ人が少なくないのは、このプロセスを踏んでいるためなんじゃないかと思う。エネルギーの拡散が起きたため。良い人になるのではなく、自然になること。一方で、相手が恋しくて相手を獲得することにフォーカスしすぎてしまっている状況では、同じボールに注ぎ会うまでが長引く可能性がある。


自分を愛することが彼を愛すること、彼を愛する事は自分を愛すること、そんな風な表現を聞いたことがあるけど、なんとなくしっくりくる。あのダージリンを手に入れてやると言うのではなくて。


お互いが同じ様になった時、もしかしたら注がれるもう一方があなたかもしれないね。出会った時のシチュエーションを考えると、今までで最も緩んだ三日間だったのかもな。



自分らしくあるとか自分を愛すると言うのは、よくわからない。でも究極的には、個別の自己がない・ただ在るだという。抵抗しない。あるがまま。


言葉に・思考として表されれば、これは完全にストーリーなんだと思うけど、異性への想いと言う推進力を使って全体であることを知る、ライフのゲームと言えるんだろうか。


今まで聞いた事を、私なりに的を外しまくりながら考えたまとめです。


彼は今どこにもいない。記憶の中にある。わからないことだけど、また彼が目の前に立ち現れるかもしれない。


以上で、エネルギーの双子と言いましょうか、ツインレイと言うストーリーについての考察を終わります。